資本主義

持てる者はますます与えられ、持たない者は持っているものまで奪われる。富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる資本主義。グローバルな資本の自己増殖をとどめることのできないポスト福祉国家。緊縮財政は貧乏人から税金を搾り取り富裕層に(逆)再分配する。余裕のある暮らしを求めるなら働け、過労死に至るまで。いつまでつづくか資本主義。

年の瀬

年の瀬。

東京オリンピックとか本当にもう嫌だ。準備の段階から膨大な金をつぎこんだ大騒ぎ。貧乏人から税金を搾り取る一方で、国家規模のプロジェクトだから膨大な予算を食いつぶして儲けるやつらがいる。なにがあろうとオリンピックだから、中止という手はない。せっかくだからの理屈で、金は注ぎ込まれ、都市は再開発され、路上生活者は排除される。

一つは、その昨今いろんな国際的な、そして国内の準備もしくはその選手でも、スポーツ、オリンピックめぐる不祥事が多々ございます。こういった不祥事がありまして、これが逆風になってアクションが盛り下がるというようでは本当に非常にもったいない話になります。例えば、私どもは音楽というものを聞きますけれども、その作曲家とかが不祥事を起こしても音楽そのものを聞かなくなるということはありません。スポーツというものについても、スポーツをすることによってもたらされ得る価値というものはスポーツ界、オリンピックの不祥事が起きても変わらないのだと。オリンピックそのものにしても理念として目指す方向性というのはその良さ、価値というものはどんなに不祥事が起きても変わらないのだと、それを踏まえて伝えていくことが大事なのではと感じています。

東京オリンピックパラリンピック競技大会組織委員会 第5回メディア委員会議事録)

 

あんた誰だよ。なにを馬鹿なことを言っているのか。これはもう不祥事なんか気にしない、という宣言だ。不祥事があろうとなんであろうと、進めていくしかない、というこの空気感。じつに美しい国すぎる。ああ嫌だ嫌だ。それでも田舎にかえったときに実家の大きなテレビで放映されていたらつい見てしまうオリンピック。ああ嫌だ嫌だ。オオサカ・シティは便乗して、万博再び、とか言い出すし、もうダメだ。舞洲とかリワイルディング(再野生化)したらいいじゃないか。

学生に賃金を

栗原康『学生に賃金を』新評論、2015年。

 

 『大杉栄伝 永遠のアナキズム』(夜光社)で大杉栄を現代に甦らせた、というか、大杉栄が憑依して現代を生きたかのような魅惑的で危険な本を書いた栗原さんのあたらしい本(とはいえ書き始めたのは2009年からだそう)。本書の内容はタイトルがずばりあらわしている、「学生に賃金を!」。本書はイタリアのアウトノミア運動に由来する、このフレーズがもたらす衝撃と感激を情動の溢れるままに(とはいえ理屈を犠牲にすることなく)力強く論じる。

 学生に賃金を支払うべき理屈の一つは知が共同財であることによる。知的活動は共同財だから、使えばなくなってしまうものではなくて、使えば使うほど多様な価値が生みだされるのだ。学生はものを考える。授業に出ているときだけでなく、遊んでいるときもサークルの部室でお喋りしているときもデートしているときもご飯を食べているときも酒を飲んでだらだらしているときも、誰もが何かしらものを考えている。企業が共同財を独占して利益を得ているのは許せない(「社会工場」における利益の独占=搾取)。本書で述べられているのは、共同財にショバ代を支払え、という意味での「学生に賃金を!」であり、それは知的活動への対価の要求というよりは、ベーシックインカムの要求に近い。栗原さんは言う、「好きなことをやりたい、カネがほしい、いますぐに。いまのわたしには、こういう理由で、これだけ社会の役にたっているからカネをくださいとか、そんなことをいっているヒマはないのである」(236頁)。

 学生に賃金をという要求の背景には、学生の経済的窮状がある。学生の経済的窮状を生みだしている原因は、高すぎる学費と借金漬けにする日本の奨学金制度がある。国利大学でも年間50万円以上、私学だと年間100万円以上。他に交通費に教材費に生活費もかかる。金持ちしか大学に行けないのか。本来、教育の機会均等を促すための奨学金制度なのに、学生支援機構(旧育英会)の奨学金は給付型ではなく利子付の返還型である。非正規労働化が進み、大学を出てもフリーター派遣社員として働くのは当たり前の現状では、奨学金の返還も困難。なのに近年、取立てが強化され、民間債権回収会社への回収業務委託、延滞者の個人情報の個人信用情報機関への登録(ブラックリスト化)、さらには訴訟まで、とにかく厳しい。

 返還型の奨学金は借金である。学生は借金漬けにされているのだが、かかる事態はただしく金融資本主義の発展段階に対応している。破綻したサブプライムローンの事例が顕著に示すように、金融資本は労働者を借金漬けにすることで利益を得ているわけだが、奨学金ローン地獄が示すのはもはや労働者だけでなく、未来の労働者たる学生たちもまた借金漬けにされている現実である。

 学生の苦境は経済的な面だけではなく、大学がますます管理強化され、キャンパスでの自由がますます剥奪されているところにもあらわれているが、そのこともまた、金融資本主義の発展段階に対応している。コミュニケーションが労働となるポスト産業社会では、人々のコミュニケーションそのものが「社会工場」での生産活動となり、企業はそこから利益を得ている。大学でのコミュニケーションも商品化され、大学は学生に企業が望むコミュニケーション能力を商品として提供する。借金漬けされた学生は元を取るために(よりよい就職先を獲得するために)よりよい商品としての教育を要求する。ここで起きているのは市場での商取引であって、本来そこからはみ出る余剰のコミュニケーションこそが大学の自由な空間を充たしていたはずなのに、まったく失われてしまう。消費者としての学生の要求は、大学側からすると管理強化の口実になる。

 とかく息苦しい学生を取り巻く現状であるが、それでも瀕死の大学のなかにもまだまだ面白い動きは蠢いている。大学を賭博にたとえた「補論2」、全共闘の意味をラッダイト運動としてとらえた「補論3」、「ゆとり全共闘」や「就活くたばれデモ」など学生運動の最前線からの「巻末特別座談会」も面白く読めた。栗原さんによれば、大学は不穏な場であり悪意に充ちている。悪意は資本の悪意ではない。「悪意の大学」という章のタイトルを見たとき、大学当局や大学に介入する資本の悪意のことかと想像したが、違った。栗原さんのいう悪意とは、学生たちの無数の悪意である。「悪意とは、ひとが善悪優劣のふるいにかけられたとき、それには乗れない、わるくてなにがわるいんだという怒りのさけびである」(205頁)。

 まともなことを言いたがる欲望に流されず、わるくてなにがわるいんだ、とひらき直る。ひらき直ることはむずかしい。ふざけるな、と怒られ、蹴とばされ、転がされてしまう。押し潰されてしまいそうな現実を生きる人はみな学生だ。学生に賃金を!

 

支那そば

岡山駅近くのラーメン屋。カウンター7席程度の小さなお店。大将(マスターと呼ばれている)がソバの他にも、おひたし、豚足などおつまみも作り、居酒屋的にも利用される。シメ鯖をつつきながらビールを飲んでるとあとから来たおじさんに話しかけられる。既にけっこう酔っ払っている様子でもあり、岡山ことばが強いので、6割程度しか聞き取れないのだけど原発政策に憤りを話されていた。「原発ちゅうてあないなもんどないもならんが…」「安倍やこう、何かんがえとんじゃが…」もうすこし話したかったけど、電車の時間が迫っていたので、おソバを食べて帰った。

年末タクシー

年末の忘年会シーズンの話。毎日のように忘年会がつづく。フォーマルな忘年会、愚痴をいいあうインフォーマルな忘年会、陰謀をめぐらせる秘密の忘年会、若者につきあう忘年会、その他いろいろ。終電を逃せば、タクシーに乗って川を越えて帰宅する。午前2時頃のタクシー。「景気はどうですか?」「さっぱりですわ」「アベノミクスで景気が上向きとかいわれてますけど…」「景気がよくなっても私らのところまでまわってくるんはいちばん最後ですわ」ぼやぼや適当な話をあれこれしているうちにふと、「私も集団就職でね。出身は東北ですわ」と運転手さん。「へー、東北出身の方で関西に来られる方は珍しいですよね」「最初は東京へ行きましたよ。それからこっちに」「東北はどちらですか?」「福島です」「原発の事故で大変ですね」「もう帰られしません」「あ、じゃあ原発の近くの…」「そうです」と。思いがけぬところで遭遇する原発事故の災害。東日本と西日本の距離感で関西では日常的に忘却されている感じもあるけど、災害はまだつづいているし、継続して苦しまれている。まだ何も終わっていない。

『新幹線大爆破』(承前)

新幹線大爆破』でよかったのは、破産した零細自営業種、元インテリゲンチャ活動家、復帰直後の沖縄出身のルンペンプロレタリアートという、異なる階級的出自をもちながらも高度経済成長からの構造的脱落者どうしとして出会い共謀してしまう点であった。また、新幹線システムのコンピュータ制御による疎外された労働を現場でかみしめる千葉真一と、労働から疎外された指令塔としての宇津井健のやりとりも味わい深い。