学生に賃金を

栗原康『学生に賃金を』新評論、2015年。

 

 『大杉栄伝 永遠のアナキズム』(夜光社)で大杉栄を現代に甦らせた、というか、大杉栄が憑依して現代を生きたかのような魅惑的で危険な本を書いた栗原さんのあたらしい本(とはいえ書き始めたのは2009年からだそう)。本書の内容はタイトルがずばりあらわしている、「学生に賃金を!」。本書はイタリアのアウトノミア運動に由来する、このフレーズがもたらす衝撃と感激を情動の溢れるままに(とはいえ理屈を犠牲にすることなく)力強く論じる。

 学生に賃金を支払うべき理屈の一つは知が共同財であることによる。知的活動は共同財だから、使えばなくなってしまうものではなくて、使えば使うほど多様な価値が生みだされるのだ。学生はものを考える。授業に出ているときだけでなく、遊んでいるときもサークルの部室でお喋りしているときもデートしているときもご飯を食べているときも酒を飲んでだらだらしているときも、誰もが何かしらものを考えている。企業が共同財を独占して利益を得ているのは許せない(「社会工場」における利益の独占=搾取)。本書で述べられているのは、共同財にショバ代を支払え、という意味での「学生に賃金を!」であり、それは知的活動への対価の要求というよりは、ベーシックインカムの要求に近い。栗原さんは言う、「好きなことをやりたい、カネがほしい、いますぐに。いまのわたしには、こういう理由で、これだけ社会の役にたっているからカネをくださいとか、そんなことをいっているヒマはないのである」(236頁)。

 学生に賃金をという要求の背景には、学生の経済的窮状がある。学生の経済的窮状を生みだしている原因は、高すぎる学費と借金漬けにする日本の奨学金制度がある。国利大学でも年間50万円以上、私学だと年間100万円以上。他に交通費に教材費に生活費もかかる。金持ちしか大学に行けないのか。本来、教育の機会均等を促すための奨学金制度なのに、学生支援機構(旧育英会)の奨学金は給付型ではなく利子付の返還型である。非正規労働化が進み、大学を出てもフリーター派遣社員として働くのは当たり前の現状では、奨学金の返還も困難。なのに近年、取立てが強化され、民間債権回収会社への回収業務委託、延滞者の個人情報の個人信用情報機関への登録(ブラックリスト化)、さらには訴訟まで、とにかく厳しい。

 返還型の奨学金は借金である。学生は借金漬けにされているのだが、かかる事態はただしく金融資本主義の発展段階に対応している。破綻したサブプライムローンの事例が顕著に示すように、金融資本は労働者を借金漬けにすることで利益を得ているわけだが、奨学金ローン地獄が示すのはもはや労働者だけでなく、未来の労働者たる学生たちもまた借金漬けにされている現実である。

 学生の苦境は経済的な面だけではなく、大学がますます管理強化され、キャンパスでの自由がますます剥奪されているところにもあらわれているが、そのこともまた、金融資本主義の発展段階に対応している。コミュニケーションが労働となるポスト産業社会では、人々のコミュニケーションそのものが「社会工場」での生産活動となり、企業はそこから利益を得ている。大学でのコミュニケーションも商品化され、大学は学生に企業が望むコミュニケーション能力を商品として提供する。借金漬けされた学生は元を取るために(よりよい就職先を獲得するために)よりよい商品としての教育を要求する。ここで起きているのは市場での商取引であって、本来そこからはみ出る余剰のコミュニケーションこそが大学の自由な空間を充たしていたはずなのに、まったく失われてしまう。消費者としての学生の要求は、大学側からすると管理強化の口実になる。

 とかく息苦しい学生を取り巻く現状であるが、それでも瀕死の大学のなかにもまだまだ面白い動きは蠢いている。大学を賭博にたとえた「補論2」、全共闘の意味をラッダイト運動としてとらえた「補論3」、「ゆとり全共闘」や「就活くたばれデモ」など学生運動の最前線からの「巻末特別座談会」も面白く読めた。栗原さんによれば、大学は不穏な場であり悪意に充ちている。悪意は資本の悪意ではない。「悪意の大学」という章のタイトルを見たとき、大学当局や大学に介入する資本の悪意のことかと想像したが、違った。栗原さんのいう悪意とは、学生たちの無数の悪意である。「悪意とは、ひとが善悪優劣のふるいにかけられたとき、それには乗れない、わるくてなにがわるいんだという怒りのさけびである」(205頁)。

 まともなことを言いたがる欲望に流されず、わるくてなにがわるいんだ、とひらき直る。ひらき直ることはむずかしい。ふざけるな、と怒られ、蹴とばされ、転がされてしまう。押し潰されてしまいそうな現実を生きる人はみな学生だ。学生に賃金を!

 

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